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【原爆の日体験談】ゴミの山から出てきた ばあちゃんの8月6日

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今回はいつもと趣旨を変えて、被曝体験について書こうと思います。

私は広島で生まれましたが、もちろん原爆を体験したわけではありません。

 

これからお話するのは、2017年に82歳で他界した、私のばあちゃんの原爆の日体験です。

なぜこんな話をしようかと思ったのかというと、ばあちゃんの死後、ゴミ屋敷の片付けをしていた時、原爆の日の体験について書かれた数枚の手書きのメモを発見したからです。

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ありとあらゆるものを捨てて大掃除した我が家ですが、さすがにこれは取っておかないとと思い、私はメモを引き出しにしまっていました。

 

当ブログの趣旨とは違いますが、8月6日に合わせて、そのメモの内容を書こうと思います。

その方がばあちゃんにとっても、他の人にとっても良いと考えたからです。

ばあちゃんと原爆

ばあちゃんは原爆の落ちた日、広島県湯来町という爆心地から直線距離で約25キロくらいのところに住んでいました。

(※今は湯来町も広島市に合併されているため、旧湯来町のことです)

地図で見る限り、爆心地からの距離は映画「この世界の片隅に」の舞台となった呉市までの距離とあまり変わらないくらいです。

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原爆が投下された時、ばあちゃんは10歳。小学生5年生でした。

爆心地と湯来町の間には山がありますが、その山を超えて黒い雨があたり一面に降り注いだため、被曝しました。

市内にいて直接被曝したとか、大怪我をしたとか、そういったことは無かったものの、ばあちゃんは生前に原爆の日のことを私に何度も何度も語っていました。

メモについて 

メモはお片づけの苦手だったばあちゃんの性格らしく、数枚の紙に順不同で書かれ、清書と下書きもめちゃくちゃな状態でした。

なので、私が適当なところで文章をつなぎ合わせました。

なるべく雰囲気が分かるように、誤字や脱字もほぼ原文のままで書いています。

また、読みづらいのですが、このブログでは愛着を込めて「祖母」ではなく、「ばあちゃん」と書かせてもらいます。

ばあちゃんのメモの内容

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私が被爆者としての思いは当時郊外でも(10歳)忘れられない程目に焼き付いているものがあります。

昭和20年8月6日午前7時過ぎから父と自転車にのり、小◯(読めない)の筏の家に行きました。

その後、私はホウズキを畑で取っていた時、ピカドン(後にそう云っていました)が落ちたのです。それが一発の原子爆弾だったのです。ただごとではないのは子供心にも分かりました。

 

家に帰り、南の山の上に大きな黒い雲がモコモコと上りました。それから黒い雨が降って来たのです。

田んぼにいた母と洗濯物を取り込みました。しばらくすると色々なものが空から降ってきました。その中に西消防署の旗が1/3位焼けて落ちて来たのを拾ったら、父が「広島の西の方に爆弾が落ちた」と云いました。

黒い雨が降っていたのに父の命令で一日中子供達と色々な物が落ちて来たのを拾って歩きました。

畳表、屋根のソギ、紙(書類)などなど色々でした。その物はセキタン箱2個から3個くらいにいっぱいになりました。そのセキタン箱は後に駐在員さん(警察の方)が取りにこられ、持って帰られました。

 

私が成人してから、その拾った物がどこに保管されているんだろうと思い、又資料に書いてあるだろうと思い、各新聞社に見つけて下さいとお願いをしましたが、その時の社員の方はどこどこえ(原文ママ)転勤したと云われてそのままです。

 

8月6日の夕方には近くの病院に被爆者達(背中、頭、体中焼けた人達)が来ました。子供達は見に行き、それを恐る恐る見たのです。

 

8月7日。父は広島市内にある妹さんの家(本川町)に行き、一面焼け野原で未だにあちらこちらでくすぶっている中、焼けた家の中から(妹さん1人でした)頭髪と着ていた着物の端切れと歯を持って帰りました。それを見た私はすごく怖かったです。

何ヶ月か後、私も父と市内に出て見ました。一面焼け野原でした。

 

8月6日の前日位まで毎日放課後、小学校の校庭で馬に乗って来た兵隊さんが地区ごとに父母やお年寄りまで集めて横一列に並んで竹やり(自分たちが作った竹)長いのを持って、エイ、エイ、ヤーと声を出して前に進む練習を毎日していました。

子供達は珍らしくて、校庭の隅の方に座って見ていたのです。

だから、日本は強いんだと思っていました。

そしたら、8月6日一発の原子爆弾があんな近くに落され一瞬にして地獄となったのです。

他県の遠くならそれほどビックリはしなかったのに、あまりの近さにおどろきました。

竹やりと原子爆弾の違いに子供心(5年生)にも、すごく恐しいことと思ったものです。

その時のショックは今でも引きずっております。勝てる訳ないと子供の頃より思っておりました。

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戦争はいけません。人殺しです。何んの得もありません。世界の特に核を保有している国の方々広島に来て原爆資料館を見て下さい。見た人は二度と戦争はしてはいけないと思うでしょう。

それに日本もイラクに自衛隊を派遣しています。どうか神様1人でもケガもなく、無事で帰られることを祈っています。

(ここでメモは終わり)

私の聞いた話

自衛隊のイラク派遣について書かれているので、多分このメモは2003年ごろに書かれたものだと思います。

ばあちゃんはおしゃべりが大好きで、あまり文章を書く人ではなかったので、メモには詳細まで書かれていません。

 

黒い雨はタールや油のようにベタベタしていて、服につくと汚れが落ちず、その雨が何なのかも知らないまま、ばあちゃんたちは黒い雨で汚れた野菜も食べていたそうです。

 

ばあちゃんの父(私の曽祖父)は軽トラックを持って市内の人の救助などを行い、1963年ごろに白血病で他界したと聞いています。

ばあちゃんのいとこや親戚達、疎開して同居していた親戚の子の親達も原爆で亡くなったそうです。

 

竹やりと原爆の差についての話は、ばあちゃんの印象に強く残っていたようで、私は子どもの頃から何度も何度もその話を聞かされました。

「勝てる訳なーよ!馬鹿たれがっ!!

まあ、ようもあんな戦争なんてしたもんよ。馬鹿らしい!!」

ばあちゃんはそう言って、いつも呆れながら怒っていました。

 

原爆の話以外にも戦時中の貧しい生活について、ばあちゃんはよく語ってくれました。

「誰にも言っちゃいけないぞ。絶対に日本は負ける」

1945年には、そう影で子ども達に伝える大人もちらほらいたそうですが、決して表には出ない話だったそうです。

川を隔てて被爆者認定が下りなかった

以下も私が子どもの時にばあちゃんから聞いた話です。

詳細は確認していませんが、実際にあった話で間違いないでしょう。

 

原爆が投下されてしばらくした後、被曝した人は「被爆者手帳」が国から配られることになりました。

しかし、国の基準では同じ黒い雨を浴びた状態でも、川を挟んで向こう側に住んでいるか、こちら側に住んでいるかで被爆者認定が下りなかったそうです。

ばあちゃんが住んでいた場所では被爆者認定が下りませんでした。

国会議事堂に行ったばあちゃん

「同じ黒い雨を浴びたのに被爆者認定されないのはおかしいじゃないか!」ということになり、被爆者認定が下りなかった地域では国に意見を言う人が団結するようになったそうです。

国会議事堂に意見を言いに行く際、女性もいた方が良いだろうと言うことで、口の達者なばあちゃんも一緒に国会議事堂に行ったと本人から聞きました。

ばあちゃんは大勢の政治家を前にして、ものすごく緊張したそうですが、言いたいことを全部言ったそうです。

 

結果、ばあちゃんの住んでいた地域でも被爆者認定が下りるようになり、ばあちゃんも被爆者と認定されました。

 

ばあちゃんが他界した2017年の8月、亡くなった被爆者名簿に名前を載せる手続きをしました。

どこからどこまでが被爆者なのか?

「被爆者」というと原爆が落ちた瞬間に旧市内にいた人をさすと思われがちですが、実際には後から市内へ入って被曝した方、被爆二世の方など、多くの被爆者の方がいらっしゃいます。

 

私もばあちゃんの話を聞いて、その話が広島市内の人の強烈な被曝体験とは違うので、「ばあちゃんも被爆者なの??」と不思議に感じることもありました。

でも、私がばあちゃんの立場で黒い雨を浴びたいか?と問われたら答えはノーです。

 

同じように黒い雨を浴びても、被爆者認定を受けてない方は大勢います。

「国に被爆者認定をくれくれ言うのはみっともない」と考えて訴えなかった人も多いそうです。

(逆に原爆投下から数年後に広島へ引っ越してきて、「医療費がタダになるから」と被爆者認定を受けた人たちの話もよく聞きました)

 

じいちゃんは市内に近い場所で被爆し、黒い雨も浴びていますが、

手続きが面倒だからという理由で被爆者手帳は持っていませんでした。

 

じいちゃんからも原爆の日の体験が聞けていれば良かったのですが、じいちゃんが話し出すと、ばあちゃんがいつも間に入っていたので、じいちゃんの口からは結局何も聞けずじまいでした。

理不尽からの教訓

私は小学生の頃から平和教育を受け、親戚たちの戦争体験を聞いて育ったため、原爆や戦争の話が完全にトラウマになっています。

高校を卒業して広島を出るまでは、広島市内の澄み切った8月の青空を見るだけで、死のイメージが迫ってくることもありました。

「次の戦争はいつ起きるんだろう?」と戦争が起こること前提で世界を見るようになってしまっていたので、小学校低学年の頃は恐怖で眠れないこともありました。

「自分もいつかあんな風に焼かれて死ぬかもしれないんだな…」というイメージが拭えず、それに近い悪夢も度々見ました。

(なので、早すぎる平和教育や過剰な被曝メッセージにはちょっと疑問が残ります…。トラウマを与えることが目的ではないと思うのですが、私はいつも気持ちが塞いでいました)

 

広島出身の友達と話すとき、

「いつか私らもちゃんと原爆について、あれはなんだったのか消化できるようになりたいね」

と話すこともあります。

けれど、こう言う話ができる人はあまりいません。

原爆自体が重くて暗い上に、今の生活とのギャップがありすぎて消化がとても難しいのです。

 

そんな状態ではあるものの、自分の思考を整理するために、私が現時点で原爆や戦争の話から学んだ教訓をズラッと書いてみます。

 

自分は死なないと思っても、いつでも天変地異が起きる可能性があるということ。

いざという時に、国は母親のように手厚く面倒見てくれないよということ。

思想や生き方は自由だけど、国や大きな組織に心酔して盲目になると、何かが犠牲になるよということ。

「絶対に正しい!」「絶対に間違ってる!」と主張するものには注意すること。

おかしいことには、ちゃんと自分の意見を伝えて対処すること。

悲惨さばかりを強調して伝えると、本質まで伝わらないよということ。

国や大きな組織や仕組みに左右されない自分の根を持つこと。

自分と関係のない昔の話ではなくて、この時代に生まれた自分の問題としていろんなことを考えようねということ。

体験談の及ぼす影響は想像よりはるかに大きいということ。

体験談を語れるのは、生き残ったからだということ。

どれだけ教育をしても、ほんとうのことは自分から知ろうとする必要があること。

 

この他にも頭によぎることはたくさんあります。

けれど、いろんな問題や思いにぶち当たった時、最後にたどり着くのは

「こんな理不尽な世界で、今を生きてるあなたはどう生きるの?」

という問いです。

 

じゃあ、どうしたらいいんだろう?

どうしたら絶望せずにみんなで幸せに生きていけるんだろう?

 

私はこの答えをゆっくり自分の力でDIYしていけばいいんじゃないかと思っています。

答えは100通りあってもいい。

悲惨な事実からも自分の内から湧き出る思考と感情に答えをもらって組み立てる。

自分とは違う答えに共感はできなくとも、あなたは内面はそう言っているんだねと認めること。

平和への方法はいくつあっても、形が違っていてもいいから、まずは生きること。

自分に「平和とは何なのか?」と問い続けること。

 

最後になりましたが、原爆で亡くなられた方、今も苦しんでいる方、原爆以外のことでも今苦しんでいる方、どんな些細なことであれ、平和であることを祈ります。